メールマガジンとして配信された文章)

おはようございます。ラピシュットの長谷川高士です。

現在、過去389本のメルマガの分析を進めています。

今日のコンテンツは、思考のベクトルその6、です。

5週に渡り、〈思考の4象限〉とその遷移について書いてきました。

〈思考の4象限〉がこちらです。

内包×意味│外展×意味
───────────
内包×感取│外展×感取

意味と感取、内包と外展。

遷移とは、
「これらの間をどう移動しているか」
ということです。

今日は「構造化」という言葉を、この4象限の視点で眺めてみたいと思います。

最近、仕事の現場での対話を通じて、より強く覚える違和感があります。

  • (話し手が)話す内容が整理されない
  • (聴き手が)聴いた内容を的確にアウトプットできない

これらの原因を
「上手く構造化できていないからではないだろうか」
と、私は当初仮説しました。

構造化を技能(スキル)として扱い、その技能の多寡を前提とする仮説でした。

けれど、しばらく考えるうちに、この仮説は批判的に再検証されました。

これは、技能(スキル)の問題ではなく、
「構造(理解)がどこで立ち上がるか」
という、思考の問題ではないだろうか、と。

構造が立ち上がる場所

「どこ」とは無論〈思考の4象限〉上の場所を想定しています。

この4象限は優劣をつけるための図ではありません。

思考が
「どこで立ち上がり、どこを通って移動するのか」
を眺めるための地図のようなものです。

内包×意味│外展×意味
───────────
内包×感取│外展×感取

私にとって、
「構造(理解)が立ち上がる」
という場所は左上(内包×意味)です。

構造は整理された箇条書きやロジックツリーそのものではありません。

「ああ、そういうことか」
と腑に落ち、意味が結ばれた状態です。

その内側のまとまりが後に言葉や図として外に現れる(あるいは表す)。

仮にこの動きを〈構造化〉とするならば、〈構造化〉は結果ではなく、内側で起きる遷移だと私は考えます。

奪うことの暴力性

もしも、
「構造(理解)が立ち上がらない」
としたら、それはなぜでしょうか。

その原因は、
「能力が不足しているから」
とは限りません。

構造(理解)が立ち上がるのが左上(内包×意味)だとしたら、その左上(内包×意味)に遷移することが何らかの原因で障害されている、あるいは、左上に遷移した経験そのものが乏しい、のかもしれません。

考えられるとすれば、左上(内包×意味)に行くことが
「安全ではなかった」
と思えるような次のような過去がある、などでしょうか。

(構造を示したとき)

  • 否定された
  • 空気が悪くなった

こうした体験が重なると、人は無意識にでも左上を避けるようになるでしょう。

結果として、感覚と行為――左下(内包×感取)や右下(外展×感取)――だけで回る回路が、強く固定されてしまうかもしれません。

ここで、1つの重要な話題を提起したいと思います。

それは、
「左上(内包×意味)を奪うことの暴力性」
という話です。

分かろうとする、あるいは意味をつくろうとする、という権利を奪うことには、
「強い暴力性がある」
と私は考え、少なくとも私にはそう感じられます。

善意や効率の名の下に、分かろうとする回路そのものを強制的に閉じてしまうことだからです。

だから私は、
「仕組みどおりにすれば結果は出る。意味は分からなくてよい」
という考え方に抵抗を覚えます。

効率的だし、スピードも上がるでしょう。

ゆえに現場では正解に見えることも多いでしょう。

けれど同時に
「あなたは理解する側ではない」
という非対称な視線が含まれてしまうのです。

次に、同じことを全く逆の立場から眺めてみたいと思います。

「(遷移を障害されている人に)左上に行けるようになってほしい」
あるいは
「(その人を)左上に行けるようにしたい」

これらを私が願うとしたら、それは私のわがままでしょうか。

非対称性のその先へ

この問いに答えるには、
「前提に拠る」
と前置く必要があるでしょう。

この時の私が、もしも左上に行けることを絶対的な善として固定しているとしたら、私の願いは
「(奪うことと同様の)暴力性を持ちかねない危うさで満ちている」
と言えます。

理解できる人が上であり、できない人は下である。

ひとたびこの序列が生まれれば、左上は
「解放の場ではなく、支配の装置」
になってしまうからです。

その構造上の必然として、教育や指導には非対称性があります。

教える側は自らが立つ場所から教える相手の現在地を眺め、
「ここまで来られるはずだ」
と強く信じているのです。

ゆえに非対称であることを避けることはできません。

だからこそ、問うべきことは1つ。

教える相手が、
「そこへ行きたい、と自ら望んでいるか」
あるいは
「そこへ行くのだ、と自ら選んでいるか」

左上への遷移は、強制によって起こるものでは決してありません。

それがたとえ良い評価であっても、あるいは恐怖であったとしても、外力によって押し上げられたのであれば定着しないのです。

一方で
「わかるようになりたい」
「意味を掴みたい」
と自ら望み、選んだ相手に対してはできることがきっとあるはずです。

現場のスピード感と向き合う

ここまでもそうでしたが、ここから先は特に未だ思考実験の途上です。

だからこそ、その途上の記録として書き残します。

「わかるようになりたい」
「意味を掴みたい」
と自ら望み、選んだ相手にできることとは何でしょうか。

左上(内包×意味)の遷移を体験できる場を整える、あるいは提供すること、だと私は考えます。

たとえば、次のようなことです。

  • 正解を教えない(そもそも唯一の正解はない)
  • 結論を急がせない
  • 問いを1つだけ手渡す
  • 構造を完成させず、途中で止める

そして何にも増して大切なのが、

  • 左上に行っても否定されない
  • 間違えても居場所を奪われない
  • その安全を静かに保証する

ということです。

構造は、与えるのでも与えられるのでもなく、自ずと立ち上がる。

意味は、注入するのでもされるのでもなく、自ずと結びつく。

仮に場を整え、あるいは提供したとしても、時間が掛かる上に、即効性もありません。

ゆえにこの営みのスピード感は、ビジネス現場のそれとは相容れず、むしろ緊張関係すら生じるほどでしょう。

それでも私はこう思います。

構造を見たければ見られるし、見たくなければ見ずにいられる。

すなわち左上に行きたければ行けるし、行きたくなければ行かずにいられる。

これらを常に自律的に選べるならば、生きる上で楽であり、生きやすいだろう、と。

だからこれからも、教えるのではなく、
「構造が立ち上がる余白を静かにつくり続けたい」
と思います。

◇今日の気づき

できもして、せずにもいられる生きやすさ
立ち上がる余白を静かにつくり続けたい

◇この文章の入口(参考)

現場の感触(右下)から、意味の揺らぎ(左上)へ


この文章は、
判断や結論に入る手前の、話の地面を整える工程(lapi-schutto.jp/before-the-talk)に関わる中で書かれています。

この文章を読んで、

話が噛み合わない感触や結論に入る前の違和感

が残るときは、それを急いで解消しなくても構いません。

そのための場所を、別に置いています。

結論の前に