(メールマガジンとして配信された文章)
おはようございます。ラピシュットの長谷川高士です。
本年(2025年)最後のメルマガが、ちょうど400号となりました。
今日のコンテンツは、私にとっての〈左上〉、です。
読者の皆様のおかげで、本メルマガは今回で400号の節目を迎えることができました。
心より御礼を申し上げます。
いつもお読みくださりありがとうございます。
直近の10号は、これまでに書いてきた389本のメルマガをあらためて眺め直し、そこに通底していた思考の動きを言葉にしよう試みてきました。
その過程で立ち上がってきたのが、〈思考の4象限〉という見取り図です。
内包と外展。
意味と感取。
人を分類するためでも、優劣をつけるためでもない、
「思考がどこで立ち上がり、どこを通って外に出ているか」
を眺めるための地図のようなものです。
内包×意味│外展×意味
───────────
内包×感取│外展×感取
前号では、構造が立ち上がるのは技能でも結果でもなく、〈左上〉への遷移なのではないか、という話を書きました。
そして同時に、その〈左上〉への遷移を奪うことの暴力性や、教える/教えられる関係に避けられない非対称性についても触れました。
では、その〈左上〉と呼んできた場所を、私はどう生きてきたのか。
400号という節目に、そのことを振り返ってみようと思います。
行かずにはいられなかった場所
私にとって〈左上〉は、そもそも
「行きたい場所」
であったわけでは、おそらくなかったろうと思います。
むしろ、
「行かずにはいられなかった場所」
と言った方が近いのかもしれません。
曖昧なまま進もうとする場。
言葉は交わされているのに、前提が揃っていない場。
正しさは並んでいるのに、どこか噛み合っていない場。
こうした場所に立つ時、
「分かったことにして進む」
という選択肢が、私にはほぼありませんでした。
意味が結ばれないまま進むことは、
「気持ち悪い」
を通り越して、
「(どこか)危険」
にすら感じられてしまう。
だから立ち止まる。
内側で、
「あれ?」
「これは、何の話だ?」
「何かが共有されていないのでは?」
と問い続ける。
結果として、〈左上〉に滞在する時間がどうしても長くなったのです。
端的に言えば、この生き方は非効率でした。
「反応が遅い」
「まわりくどい」
あるいは
「考えすぎだ」
と言われることがよくありました。
そして、早く結論を出す人が評価される場面も数え切れないほど見てきました。
〈左上〉にいることは外側からは見えづらく、ゆえに何もしていないように見えることすら、しばしばありました。
事実、失ったものもあると思います。
誤解されたこと。
役に立たないと思われたこと。
距離を取られた関係。
「そこまで考えなくていい」
そう言われた回数は一度や二度ではありませんでした。
〈左上〉を閉じずに生きてきた
それでも私は、〈左上〉を閉じることができませんでした。
どれだけ認められ難くとも、分かろうとする回路そのものを捨てることはできませんでした。
理由は単純で、そこを通らずに出した結論が、後から必ずどこかで壊れる場面を何度も見てきたからでした。
その場ではとりあえずは整って見える。
説明も付く。
判断も下せる。
けれど時間が経つと、また同じ議論が繰り返される。
別の場所で、同じ違和感が立ち上がる。
そのたびに思いました。
判断が間違っていたのではない。
判断に入る前、もっと言えば話が始まる前の工程が、置き去りになっていただけだ、と。
振り返えれば、私はずっと
「立ち止まる役割」
を引き受けてきたのだと思います。
誰も明示的には引き受けていない。
けれど、誰かがやらないと進まない。
そんな場面で、意味が立ち上がるまで待つこと、前提が揃うまで立ち止まること、を。
それは才能でも、特別な能力でもなく、ただの履歴です。
(私の中で)そうせざるを得なかった時間が長かったというだけです。
私にとって〈左上〉は
「手放すことができなかった回路」
なのだと思います。
行きたいから行っていたわけではない。
行かずに進む、という選択が、私にはほとんど残されていなかった。
意味が結ばれないまま進むことが、どうしてもできなかった。
だから立ち止まり、だから内側で確かめ続けてきた。
最近になって、そのことをようやく受け止められるようになりました。
〈左上〉を閉じずに生きてきた。
それが、私のこれまでだったのだ、と。
自分の言葉で引き受けられる形
思えばメルマガの執筆は、常に〈左上〉に向かう営みでした。
ひょっとすると、明確に意図して行っていた数少ない〈左上〉への遷移だったのかもしれません。
そしてメルマガを400本を書いた今、またこの1年、現場での実践を重ねてきた今、ようやく
「この回路をどう扱えばよいか」
が分かってきた気がしています。
それは、〈左上〉を使い続けることでも、手放してしまうことでもなく、
「立ち上がる条件を静かに整えること」
だったのだ、と。
その場の関わりとして、閉じないことと押しつけないこと。
守ることと手放すこと。
そのどちらかを選ぶのではなく、両方を行き来できる状態を保つこと。
それこそが、これまで無自覚にやってきたことを、自分の言葉で引き受けられる形なのだと、今は思っています。
話の地面を整えること。
人が変わっていく可能性を閉じないこと。
そのために、〈左上〉が立ち上がる余白を静かに整えること。
これが私の仕事です。
◇今日の気づき
〈左上〉は手放すことができなかった回路
〈左上〉が立ち上がる余白を静かに整える
◇この文章の入口(参考)
感覚(左下)から、意味(左上)へ
この文章は、
判断や結論に入る手前の、話の地面を整える工程(lapi-schutto.jp/before-the-talk)に関わる中で書かれています。
この文章を読んで、
話が噛み合わない感触や結論に入る前の違和感
が残るときは、それを急いで解消しなくても構いません。
そのための場所を、別に置いています。
