(メールマガジンとして配信された文章)
おはようございます。ラピシュットの長谷川高士です。
先週、
「苦しい。そして分かっている」
と書きました。
ところが、その直後から、
「苦しい。そして分からない」
と、またもや混乱する場面が続きました。
起きている現象に、自分の理解が追い付いていないのかもしれません。
今日のコンテンツは、自己観察、です。
「これまでのやり方が全く通用しない」
そんな状況が続く中で、自分の中にある感覚がはっきりと立ち上がっていることに気づきました。
「分かってほしい」
という思いです。
この思い自体は、これまでも何度となく抱いてきたものです。
同時に私は、
「分かろうとする余地が残っていてほしい」
すなわち、
「分かったことになってほしくない」
とも思ってきました。
一見、相反するようなこの2つの思いは、私の中でずっと並んで存在してきました。
今日はそのことを、観察として書いてみようと思います。
分かってほしい、という欲求
私は長い間、
「分かってもらえない」
という感覚の中に身を置いてきました。
考えていることが、言葉になる前に流れていく。
前提が揃わないまま、話が先に進んでいく。
そういう場に立ち会うたびに、どこかに引っかかりが残るのです。
その引っかかりは大抵、その場の中では扱われません。
「細かい」
「回りくどい」
「そこまで考えなくていい」
そう言われるたびに、私は、分かってほしい、と願ってきました。
自分の考え方を。
自分の感じ方を。
なぜ、そこに立ち止まってしまうのかを――。
この感覚自体は、私にとって決して新しいものではありません。
分かろうとする余地が残っていてほしい
一方で私は、分かってもらえないことそのものを力づくで解消しようと、常にしてきたわけではありません。
説明し尽くす。
説得する。
理解させる。
こういう方向には踏み込まない(あるいは、踏み込めない)こともそれなりに多くあり、どちらかと言えば、その方が多かったような気がします。
おそらくそれは、誰かに分かってもらうことと同じくらい、分かろうとする余地が残っていることが、私には大事だったからだと思います。
誰かが、途中で考え直せる。
立ち止まれる。
言い直せる。
そういう空間が、場の中に残っている。
その可能性が閉じてしまうことの方が、私には、ずっと怖く感じられたのです。
2つの感覚が、同時にある
「分かってほしい」
「分かろうとする余地が残っていてほしい」
どうやら私は、ずっとこの2つの感覚の間に立ってきたようです。
「分かってほしい」
「分かったことになってほしくない」
これらは次のようにも言い換えられます。
- 自分が外側から閉じられたままで、物事が進んでいくのは辛い。
- けれど、誰かの内側が結論や評価で早々に閉じられてしまうのも、同じくらいに苦しい。
私の中でこの2つは、矛盾というよりも、緊張関係としてずっと並んでいるように感じています。
関係の中で起きていること
ここ最近、この緊張関係が、別の形でも現れていることに気づきました。
報告すること。
相談すること。
そして、状況を共有すること。
多くの人にとって、これらは、ごく自然な仕事の一部でしょう。
「報連相」と呼ばれるように、基本であり、大切なスキルとして認識されています。
そのこと自体は、私も頭ではよく分かっています。
けれど私は、連絡はともかく、報告と相談がどうにも苦手です。
特に、相談が最も苦手です。
なぜ苦手なのか。
どんな抵抗を感じているのか。
それが、少しずつ言葉になってきました。
報告であれ相談であれ、他者に状況を説明するという行為は、私にとっては、
「その関係の中に、どの深さで組み込まれるか」
という出来事として立ち上がります。
まだ形になっていない自分。
まだ役に立っていない自分。
迷っている状態の自分。
その状態のまま、関係の中に置かれることに、私は、どうしても慎重になります。
だから、報告するより、引き受け続ける。
相談するより、回収し続ける。
そういう方向に、つい向かってしまう。
その方が、場を乱さず、他の人に負担をかけず、全体として「よい」のではないか。
そう感じてしまうからです。
けれど、その状態の私は、周りから見ればきっとこう映っているでしょう。
「何をしているか、見えない」
「何を考えているか、読めない」
「自分一人で、勝手に進めている」
私の内側にある誠実さと周囲の不安や不信との間に、すれ違いが生まれているのだろう。
そんな構図が、ようやくぼんやりと見えてきました。
分かってほしい、のもう一つの顔
こうして観察してみると私の「分かってほしい」は、理解されたい、という欲求だけではないようにも思えてきます。
「どんな存在としてその場にいるのかを、その関係の中にきちんと置いておきたい」
こんな感覚に近いのかもしれません。
役に立つ人として。
調整する人として。
回収する人として。
そういう形で存在しているとき、私は、比較的安心してその場に身を置けています。
ところが、まだ何者でもない立場や途中のままの状態で新たな関係の中に立たされるとき、私は不安定になります。
「分かってほしい」
どうやらその中身は、
「ここに居場所がある、と感じられるかどうか」
という一点に深くつながっているようです。
自己観察としての結び
「分かってほしい」
「分かろうとする余地が残っていてほしい」
この2つの間で揺れたり、立ち止まったりしながら、今私はいくつもの関係の中に身を置いています。
中には、分かってもらえない、すなわち、居場所がはっきりとは担保されていない、と私が感じる場面もあります。
しかし、たとえそうであっても、
「分かろうとする余地だけは見失わないようにしたい」
とあらためて気づきました。
そのために、次のことを試してみようと思っています。
- 結論ではなく、途中の言葉を出してみる。
- 整った説明ではなく、「ここで引っかかっています」とその場所だけを共有してみる。
- 完成ではなく、3割の状態で外に置いてみる。
それで場が壊れるか、あるいは空気が変わるか。
その反応を観察します。
◇今日の気づき
結論ではなく、途中の言葉を出してみる
完成ではなく、3割の状態で外に置いてみる
◇この文章の入口(参考)
感覚(左下)を起点に、関係や実務の場面(右下)をかすめながら、意味(左上)へ
この文章は、
判断や結論に入る手前の、話の地面に立ち戻る中で書かれています。
この文章を読んで、
話が噛み合わない感触や結論に入る前の違和感
が残るときは、それを急いで解消しなくても構いません。
そのための場所を、別に置いています。
