(メールマガジンとして配信された文章)
おはようございます。ラピシュットの長谷川高士です。
東日本大震災の発災と東京電力福島第1原子力発電所の事故発生から、14年が経ちました。
この時期に書くフレーズに私がこれを初めて選んだのは、3年前の2022年でした。
今日のコンテンツは、馴化(じゅんか)、です。
2022年3月に放送されたNHKのテレビ番組を視聴した私は、大きな気づきを得ました。
そのことについて、同年3月15日配信の第202号で次のように書いています。
少々長めですがそのまま再掲します。
東日本大震災の発災と東京電力福島第1原子力発電所の事故発生から、11年が経ちました。
災害社会学が専門の金菱清教授が、出演したNHKの番組で次のようにコメントしていました。
いわゆる東日本大震災から11年というフレーズをメディアとか研究などでも使っています。
しかし、被災者の言葉には、そのフレーズは全然使われていなくて
「あの日から」
とか
「あの津波から10年」
という言葉を紡いでいる。この違いについて深く考える必要があるかと思います。
"東日本大震災から何年"と言う時、「震災は発災からその直後までのことであり、遅くとも2011年には終わった出来事」とする前提を、私たちは、暗に踏まえてしまっている。
それを「大きな落とし穴」として金菱教授は指摘しています。
冒頭の表現は、その指摘を受けた私が、新たな視座からこの11年を見つめ直し、前提を更新して初めて書いた文章です。
今日のメルマガを書くにあたって、私はこれを読み直しました。
そして、
「よかった」
と、思いました。
金菱教授の指摘とそれをきっかけに得た自らの気づきの両方を、深く思い返すことができたからです。
よかったと思ったその一歩手前の感情は、驚きでした。
他者からの指摘と自らの気づき。
このいずれに対する記憶も、この3年で明らかに解像度が落ちていた。
平たく言えば大まかには覚えていたが、詳細についてはすっかり忘れていた、ということです。
その事実にビックリしました。
頭に浮かんだ心理学用語
これから書くことは、本来であれば、学習心理学等の知見に照らして根拠を示しながら丁寧に論考することが望ましい内容です。
しかし今日はあくまでも、私の主観的経験を書きたいと思います。
要するに
「長谷川がこんな風に感じた、考えた」
ということです。
せめてもの手掛かりとして、一般教養の範囲に収まる根拠を必要に応じて取り上げながら進めます。
繰り返しになりますが、
「発災(発生)から●年経った」
というフレーズ(以下「このフレーズ」とします)を使うのは今日で4度目です。
より卑屈に言えば、2年目以降は、年数に1を加えてこのフレーズを使い回してきました。
「このフレーズを使わなければ……」
という必要感の強度は、私の中で一定以上に保たれていました。
ゆえに今日も書いたし、書けたのです。
「馴化(じゅんか)」という心理学用語があります。
私はこの語を西澤哲教授から教わり、2025年2月4日の第353号で紹介しました。
このフレーズと私の間の心理的距離の変化を振り返るうちに、この馴化という語がふと思い浮かびました。
馴化とは
馴化は、ひと言でいえば慣れるということです。
馴の字の成り立ちは、
「川が一定の道筋に従って流れるように、馬が人に従う」
と説明されています。
当初は大きかった馬の反応――人の都合では「抵抗」と受け止められる――が、次第に小さくなる、ということでしょう。
すなわち馴化とは、刺激に対する反応が徐々に弱まる、という現象のことです。
馴化は現象であり、それ自体には良いも悪いもありません。
ただ慣れるというだけです。
馴化の影響により様々な結果が生じますが、関係者が各々の立場でこれを評価することで、良し悪しが初めて分かれます。
漢字の成り立ちどおりの人に対する馬の変化は、(家族の一員にするということも含めて)馬を利活用をしたかった人々にとっては「良い馴化」ということになるでしょう。
対する馬は、果たしてその時どう感じていたか。
それは馬自身の性格や馴化した環境に拠って、異なるかもしれません。
話を戻します。
要するに私は今日、このフレーズへの馴化を実感したのです。
3年という時間経過と4度の接触によって、この馴化は起きました。
繰り返しますが、馴化そのものに良し悪しはありません。
ただし、3年前にこのフレーズを選び、以降あえて使い続けている意図からすれば、馴化によるこの結果は歓迎できるものではありません。
馴化は避けることができない。
よってその影響を望まない場合には、馴化対策を施す必要があります。
ほど良い緊張の限定性
今現在、このフレーズと私との距離感は、ほど良い緊張状態にあると言えます。
この「ほど良い」というのは実に不安定であり、保持することが極めて難しい状態です。
強い緊張状態が長期間続けばストレスが過大になります。
おそらく馴化とはこのリスクを避けるために獲得された、ヒト(やその他の動物)の機能だと考えられるでしょう。
一方で、馴化が進むほどに緊張は弱まり、やがてほぼ弛緩した状態に収れんします。
今朝の私は、このフレーズに対する緊張が弱まった状態にありました。
そして、3年前の自身のメルマガを読み返すことで、刺激を再び受けました。
その瞬間、緊張が一気に高まりました。
「大事な部分を忘れかけてた!!」
心の声を文字に起こすとこんな感じです。
その後、今日のこのメルマガを書き進めながら、緊張の度合いが徐々に下がり、現時点では「ほど良い」と感じるところに落ち着いています。
ところが何もせずに、この「ほど良い」を保持することはできないでしょう。
緊張度合いの低下、すなわち馴化は避けられないからです。
このように「ほど良い緊張」は、特定の一期間にだけ現れ、かつ存在し得る限定的な心理状態だと言えそうです。
学習効果への期待
ならば刺激を与え続ければよい。
今回の私の例でいえば、過去のメルマガを定期的に読み返すということです。
たしかにそのとおりで、馴化による影響を小さくすることを期待できそうです。
ただし、この繰り返し行為自体にも馴化は起こるでしょう。
そして刺激を繰り返し受ける、すなわち過去のメルマガを定期的に読み返すという行為のコストも無視できません。
ややもすれば、ほど良い緊張状態を保つこと自体が目的になってしまいかねないからです。
一方で別の観点もあります。
刺激を受けることの学習の側面に注目します。
学習を繰り返すことで理解や記憶が強化されるのではないか、という期待があります。
刺激が単なる刺激で終わらず、理解や記憶として定着すれば、馴化とその影響を切り離せる可能性があるのではないか、と。
このフレーズについて言えば、言葉が借り物ではなく自分のものになる、という感覚です。
刺激として外側にある間は馴化の対象だが、理解や記憶として内側に入ってしまえば、熟成の対象となるのではないか、と。
こんなことを考えた、3月11日でした。
◇今日の気づき
刺激として外側にある間は馴化の対象
理解や記憶として内側に入れば熟成の対象
◇この文章の入口(参考)
感覚(左下)から、意味(左上)へ
この文章は、
判断や結論に入る手前の、話の地面に立ち戻る中で書かれています。
この文章を読んで、
話が噛み合わない感触や結論に入る前の違和感
が残るときは、それを急いで解消しなくても構いません。
そのための場所を、別に置いています。
