(メールマガジンとして配信された文章)
おはようございます。ラピシュットの長谷川高士です。
先週のメルマガには、何人かの方から感想をいただきました。
その中の1通をきっかけに、巡らせた考えを記録として書いておきます。
今日のコンテンツは、感じるがゆえの苦しみ、です。
2025年1月6日配信の第401号について、次のような内容の感想をいただきました。
閉じる音が聞こえてしまうのは、稀有なタレント(才能)ですが、残酷でもあるかと感じます。
嬉しいと同時に、思わずハッとする一文でした。
そして私は、これまで感じてきた生きづらさに、あらためて向き合ってみました。
苦しいか、と尋ねられたら
「閉じる音が聞こえてしまうのは、苦しいことか」
そう尋ねられたら、私は
「はい」
と答えます。
ただしそれは、我慢しているとか、耐えているとか、そういう種類の苦しさではありません。
もっと扱いにくい、包み隠さずに言えば、あまり格好のつかない苦しさです。
私は、前提が揃わないまま話が進んでいく場や、まだ言葉になっていない違和感が置き去りにされる瞬間に気づいてしまい、そしてどうにも気になってしまいます。
そして、一度気づいてしまうと、見なかったことにはできません。
「まあいいか」
「先に進もう」
と、自分に言い聞かせようにも、身体のどこかが引っかかったままになる。
ゆえにこの感じは、才能というより、性格の癖に近いものだと思っています。
苦しさは消えもしないし慣れてもいない
感想には続きがありました。
感じるがゆえの苦しみ、もがきを感じ得ないですが、いつも前向きにきりかえる姿勢に敬服します。
そのように感じてくださり、光栄の限りです。
その一方で、
「前向きに切り替えられるようになった」
かというと、そういうわけでもないかもしれない。
先週の後半からまた、こう思い知らされています。
苦しさは消えもしないし、その苦しさに慣れてもいませんでした。
ただし、変わったこともあります。
それは、その苦しさがどのように生まれているのかを、ようやく言葉で捉えられるようになってきた、ということです。
以前の私は、苦しいときただ漫然と消耗していました。
なぜ疲れているのか分からない。
なぜ引っかかるのか分からない。
そして「気にし過ぎだ」と思われる。
こうしたズレの中で、
自分を責めることも多くありました。
今はこんな感じです。
苦しさはある。
むしろ、はっきり見える分だけ「ダメなところ」もよく分かる。
引き受け過ぎる。
立ち止まり過ぎる。
決めるのが遅い。
ただし、それがどのように起きているのかを自分で自分に説明できるようになりました。
以前は「苦しい。そして分からない」
今は「苦しい。そして分かっている」
この違いです。
理解が増えた、という実感
端的に言えば、
「自分への理解が増えた」
ということでしょうか。
とはいえ、繰り返しになりますが、理解が深まったからといって、楽になったわけではありません。
ただし、「苦しい」は同じでも、「分からない」が「分かっている」に変わった分だけ、「苦しい」が膨らみ過ぎなくなっているような気がします。
「自分が弱いからだ」
「努力が足りないからだ」
と、一括りにしなくてよくなりました。
代わりに、
「ああ、今はここに引っかかっているな」
と、自分の反応を一段引いたところから眺められるようになりました。
理解が増えた、というのはこんなイメージです。
誇れるとしたら
私の特性が、稀有かどうかはさておき、
「タレント(才能)」
だと感じられるかどうかは、活かされ方次第だと思います。
もし私が、私自身の特性を誇れるとしたら、それは、
「稀有であることや才能であること」
というよりもむしろ、
「何十年もの間、試行錯誤を続けてきたこと」
かもしれません。
苦しい感覚を、無理に押し殺さず、美談に(したり)しなかったり、誰かを下に置く材料に(したり)しなかったりしながら、それでも関係の中に置き続けようとしてきました。
「がんばらないけど、あきらめない」
座右の銘、というほどではありませんが、そんな長年の試行錯誤の支えになった言葉です。
そして、この試行錯誤が実を結んだと思えるようになったのは、間違いなく、励まし続けてくれた妻のおかげです。
◇今日の気づき
苦しい。そして分かっている
がんばらないけど、あきらめない
◇この文章の入口(参考)
感覚(左下)から、意味(左上)へ
この文章は、
判断や結論に入る手前の、話の地面に立ち戻る中で書かれています。
この文章を読んで、
話が噛み合わない感触や結論に入る前の違和感
が残るときは、それを急いで解消しなくても構いません。
そのための場所を、別に置いています。
